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保科正之

保科正之
 
保科正之の父は、江戸幕府2代将軍徳川秀忠だ。
ところが2代将軍秀忠は、正室(お江の方)にまったく頭が上がらない。お江の方の母は織田信長の妹(お市の方)で、その娘なのでプライドは高く美しかったと思われます。
 
しかし秀忠は正室の他に「お静」と言う女性と関係を持ち、二人の間に生まれた子供は「幸松」と名付けられた。この幸松が後の「保科正之」となる。
 
しかし、正室「お江の方」に頭の上がらなかった秀忠は、正之(幸松)を正式には認知できなかった。そこで正之は見性院(武田信玄の二女)に養育されることとなった。
  
 武家の男子は、7歳から学問と武芸の稽古を始めなければならず、見性院は、最も信頼のおける信州高遠の城主「保科正光」に正之を託した。正之は、保科正光の養子となり、その後寛永8年(1631)、21歳で高遠藩主となった。三代将軍「家光」は、正之を実弟として、山形、続いて会津の城主とし、重く用いた。

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