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江戸城焼失

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江戸城焼失
 
1657年(明暦3年)118日、本郷から出火し瞬く間に江戸中に広がった火事は二昼夜におよび、江戸の大部分を焼失した。焼失した大名屋敷は500軒、旗本屋敷770軒、町屋400町余りにおよび、死者は10万人以上に達した。江戸城も天守閣をはじめ本丸、二の丸、三の丸が焼け落ち、無事だったのは西の丸だけという事態となった。将軍も本丸から西の丸に避難を余儀なくされたが、さらに西の丸にも火の粉が飛んでくるようになったため、一時は将軍が城外に避難することが検討されたほどだった。
 
この対応に陣頭指揮を執ったのが4代将軍後見役の保科正之。西の丸に避難した将軍の前で右往左往する幕閣の中にあって、正之は城外避難との意見をしりぞけ、「西の丸が焼け落ちたら、屋敷の焼け跡に陣屋を立てればよい」として将軍を江戸城にとどまらせた。有事の際にトップがとるべき姿勢を示したと言える。
 
被災者救援にも力を尽くした。まず粥の炊き出し。江戸の6カ所で、一日千俵の炊き出しが7日間行われ、さらに延長された。同時に、家を焼け出された江戸町民に救助金として16万両を支給することにした。幕閣の間からは「それではご金蔵がカラになってしまう」と反対する声が上がったが、保科正之は「幕府の貯蓄はこういう時に使って民衆を安堵させるためのもの。いま使わなければ、貯蓄がないのと同然だ」と一喝した。

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