1897年作 69×85cm 東京国立博物館所蔵
近代日本洋画の父、黒田清輝の最高傑作ともいえる「湖畔」。
国の重要文化財に指定されている「湖畔」は1897年、後に黒田清輝の妻となる金子種子(当時23歳)が、避暑として箱根の芦ノ湖を訪れた際、種子をモデルに芦ノ湖の湿潤な情景を描いた作品である。
現在残される種子の証言によれば、芦ノ湖の湖畔の岩に腰掛ける夫人の姿を見た清輝が
「よし、明日からそれを勉強するぞ」と、下絵も描かずに取り組んだ作品だ。
「湖畔」は、1897年、第2回白馬会展に「避暑」という名称で
出品されたほか、1900年のパリ万博へも「智・感・情」とともに出品されている。
黒田清輝は1866年、鹿児島・高見馬場に黒田清兼の子として生まれた。1885年、18歳でフランスに留学し1893年に帰国。
1897年の夏、黒田清輝は、のちの夫人・種子とともに芦ノ湖に避暑に訪れ、1ヶ月くらいをかけ、この作品を完成させた。
華族であった黒田家と夫人との、門地の差が障害となって結婚が許されず、その抵抗から二人は駆け落ちした。(清輝31歳、種子23歳)
結局、二人の結婚が認められたのは養父がなくなったあとで、黒田清輝は51歳になっていた(照子43歳)。この駆け落ちから20年後のことである。
日本洋画界を代表する巨匠にも人間的な悩みはあり、しかも、身分や門地という、個人の努力を超えたところのものだけに、厄介であった。この名画の隠れた一面である。
黒田清輝は、1924年、58歳でこの世を去った。