1543年、種子島に漂着したポルトガル人によって、我が国に初めて鉄砲がもたらされた。このとき領主の種子島時堯は二挺の鉄砲を手に入れたが、そのうちの一挺が「津田監物算長(つだけんもつかずなが)」によって紀州根来にもたらされた。
当時の紀州は、名目上は守護大名畠山氏の支配下にあったが、実質その権威は無く、またそれに取って代わって紀州を統治するような戦国大名も現れずに、高野山や根来寺などの大寺社勢力や、各地の土豪勢力が割拠しているといった状態だった。中でも根来寺を拠点とする「根来衆」と、和歌山市の土豪集団「雑賀衆」は大量の鉄砲で武装した傭兵集団として各地を転戦し、時に天下人をも震撼させるような活躍をした。
当時の根来寺は、寺領72万石、堂塔2700余、僧兵2万とも3万とも言われる紀伊、和泉、河内にまたがる大寺院、というより一種独立国家だった。
その構成は学侶という純粋の僧侶と、行人という寺の雑役や防備をつかさどる人々に分かれていた。僧兵というのはこの行人のことだ。
また杉之坊、泉識坊、岩室坊などといった多くの子院に別れていましたが、根来に鉄砲をもたらした津田監物は、杉之坊の院主明算の兄に当たり、杉之坊の院主は、代々小倉(おぐら)の豪族津田家から出されていた。
雑賀衆は、雑賀五組といわれる、現在の和歌山市と海南市の一部にまたがる五荘、つまり紀ノ川南岸の海岸よりの雑賀荘、紀ノ川北岸の十ヶ郷、日前宮の領地の宮郷、和歌山市東部地区の中郷、和歌山市東南部から海南市に到る南郷という地域にひしめく豪族たちの総称だ。
彼らは互いに姻戚関係や地縁関係で複雑に絡み合い、時に争いながらも、合議制の自治を行っていた。ただ残念ながら、天下人に対する“一枚岩の団結”はあまり見られず、内部の対立によってやがて終焉を迎えることになっていく。
この辺りからいよいよ「雑賀孫市」が歴史の表舞台に登場する。当時の資料ではその名は、「鈴木孫一」として残されていて、本名は、「重秀」が有力だ。
当時、“雑賀の(頭領の)孫一”と呼ばれていたものが、江戸時代に、雑賀孫一、あるいは孫市となったようだ。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした時、畿内に勢力を持っていた阿波の三好氏は、いったん本国に引き上げたが、1570年7月に巻き返しを図って摂津に上陸、野田・福島に砦を築き、再び信長に対峙した。
このとき鈴木孫一ら雑賀衆の一部有志が、三好の傭兵としてこの砦に入った。一方信長からは、8月に将軍義昭、守護畠山氏を通して雑賀・根来衆に対して参戦が要請され、雑賀・根来はこれに応じる形で、信長側で攻城戦に加わった。
つまり雑賀勢同士が戦ったわけだが、この戦いでは三千丁の鉄砲の激しい銃撃戦が行われた。しかも彼らは火縄銃の短所、連射性の無さを補うため、四人一組で、一人が数丁の鉄砲を順番に、間断なく撃ち、後の三人がひたすら弾を込めるという戦術も編み出していた。
信長が三千丁の鉄砲を三弾構えに配置して、武田騎馬軍団を壊滅させた、有名な長篠の合戦は5年後の1575年であり、信長は雑賀・根来衆と戦ったことにより鉄砲の重要性を思い知ったのだ。
一方、三好が討たれたら、次の矛先は自分たちに向けられると読んだ本願寺の法主顕如は、各地の門徒衆に蜂起を要請、9月12日先手を打って挙兵し信長方の陣地を攻撃、ここに十年間にわたる石山合戦の火ぶたが切って落とされた。
本願寺の蜂起に伴い、初め信長方で参戦していた雑賀衆も次第に本願寺方に加わるようになり、鈴木孫一ら十ヶ郷・雑賀荘の門徒衆を中心とした雑賀衆は本願寺軍の主力として、信長軍に“土塀ひとつ破らせない”という働きをした。
さらに、1576年、戦いが籠城戦を迎えると、雑賀衆は鉄砲隊を中心とした前線の働きだけでなく、水軍を用いて石山補給部隊の中心も担うようになった。
こうして戦いが膠着状態に陥ると信長は、本願寺軍の主力であり、かつ補給の本拠である雑賀討伐を計画し、まず雑賀の三組(宮郷・中郷・南郷)と根来衆を取り込んでおく工作をした上で1577年、満を持して紀州に総攻撃を仕掛けた。
2月13日信長は、滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉・荒木村重・細川藤孝・堀秀政ら、そうそうたる武将を従え10万の大軍を率いて出陣。一土豪集団に過ぎない雑賀衆相手にこれだけの大軍を動員したことを見ても、いかに信長が石山攻めで雑賀衆に脅威を覚えていたかがわかる。
対する孫一ら雑賀衆は和歌浦の妙見山城(和歌山南消防署の裏の小高い丘)を拠点に、弥勒寺山城(秋葉山)に部隊の主力を結集して、雑賀川(和歌川)を挟んで対峙した。
このとき孫一らは潮の干満を利用して川の水をいったん干上げ、川底に無数の瓶や桶を埋めた後、再び水を流しておいたので、先を競って渡河して来た織田軍の兵馬はたちまち川底に足を取られ、そこへ雑賀自慢の鉄砲衆からの一斉射撃を受けて大打撃をこうむった。
こうして戦いは膠着状態となったが、十万の大軍に二千や三千の兵力ではいつまでも持ち応えられるはずはない。
ところが毛利輝元が雑賀への援軍の動きを見せ始めたため、背後を衝かれる恐れを感じた信長は和議を持ちかけ、名目上雑賀衆は降伏し、信長はこれを全て赦免するという形で3月15日にいったん決着を見た。
その後、信長方に加担した南郷や宮郷の土豪衆との対立が表面化し、井の松原(海南市)で合戦が行われた。
信長も再び軍をさし向けたが、この時も孫一らが勝利した。この合戦の詳しい資料はあまり残されていないが、ともかく信長は二度紀州を攻めて、ついに屈服させられなかった。
籠城戦が膠着していた石山本願寺は1579年に朝廷が講和の仲介に動き出し、これを受けて、1580年4月には法主顕如上人が石山を退去、本山を紀州雑賀御坊(現在の鷺ノ森別院)に移した。
これより3年間、鷺ノ森が浄土真宗本願寺派の総本山になる。
徹底抗戦を主張して石山に留まった、息子の教如上人も8月には石山を離れ、11年に及んだ石山合戦もようやく終結を迎えた。
このとき紀州に逃れた教如上人を、雑賀の門徒たちが信長の追っ手から匿ったのが、雑賀崎の鷹ノ巣洞窟(上人の洞窟)と言われている。