華岡青洲は1760年、紀伊の国・名手荘(現・和歌山県紀の川市西野山)に生まれる。
京都で、ドイツ人やオランダ人が伝えた外科技術を学び1785年、紀州に戻り医業を開業した。
青洲にとって大きな転機が1793年に訪れた。この年、青洲は妹の於勝を乳ガンで亡くした。
医者でありながら、妹を救うことができなかった青洲は、「全身麻酔」による外科手術法実現のために研究を重ねた。
青洲は「全身麻酔」を実現するために、「薬草」の効能に着目。
当時「毒」と認識されていた曼陀羅華(まんだらげ・チョウセンアサガオ)、草烏頭(トリカブト)の中毒作用によって神経を麻痺させれば手術の痛みを忘れさせることができると気づいた。
犬による実験が成功したのち青洲自身が人体実験を行った。
しかし、実験で青洲の神経がおかしくなるのを見かねた青洲の実母と妻が実験台になることを申し出た。
数回にわたる人体実験によって母は命を失い、妻は失明した。
母と妻の犠牲によって「全身麻酔薬・通仙散」は遂に完成。
1804年11月14日、青洲は、発明した通仙散によって全身麻酔による手術を試みた。
最初の乳ガン患者は、60歳の老婆・勘であった。「老い先短い」自分の身を使って欲しいとの申し出であった。
麻酔を効かせ、腫瘍を摘出。腫瘍は大人のコブシほどもあったという。
10時間ののち、老婆・勘は静かに目を覚ます。ここに、世界初の「全身麻酔」による乳ガン手術は成功を収めた。
以後、青洲は143名の乳ガン患者を手術したと伝わっている。
世界初の全身麻酔手術に成功した情報はまたたくまに日本中にひろまり、全国から多くの患者と入門希望者が集まった。
彼らを迎え入れて育成するため青洲は建坪20坪余りの自邸兼診療所の近くに、建坪220坪の住居兼病院・医学校を建設した。これが「春林軒」である。
輩出された門下生は1,033名。
大坂・中之島に作られた分校「合水堂」門下生を含めると2,000名を超え、彼らにより日本全国に華岡流外科医術が広められた。