1911年に創刊された雑誌「青鞜」の冒頭で「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな青白い顔の月である。」と記したのは平塚らいてうであり、日本の女性解放運動をスタートさせた女性である。
平塚らいてうは、1886年2月10日、東京府麹町区三番町に三人姉妹の末娘として生まれる。本名は平塚明(はる)。
父・平塚定二郎は紀州藩士の出で、明治政府の高級官僚(会計検査院に勤務)で、のちに一高(現・東大)の講師も勤めた。
母・光沢(つや)は徳川御三卿のひとつ田安家奥医師の飯島家の出。
幼少時は、欧米を視察巡遊した父の影響で、ハイカラで自由な環境で育った。
しかし、平塚明が富士見小学校に入学してまもなく、8歳の時に父は従来の欧米的な家風を捨て去り、国粋主義的な家庭教育を施すようになった。背景には、日本が日清戦争を始めたためだ。
父の意思で当時国粋主義教育のモデル校だったお茶の水高等女学校に入学させられ、「苦痛」の5年間を過ごす。ただし、テニス部で活躍したり、修身の授業をサボる「海賊組」を組織するなどそれなりには楽しんでいたらしい。
1903年、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に
憧れて日本女子大家政学部に入学。
しかし、翌年に日露戦争が勃発すると、徐々に国家主義的教育の度合いが強くなった。
この頃から、自分の葛藤の理由を求めるために宗教書や哲学書などの読書に没頭する。
1906年、日本女子大を卒業。
その後、英語の力をつけるため入学した英語学校でテキストとして使われたゲーテの「若きウェルテルの悩み」で初めて文学に触れ、文学に目覚める。
東京帝大出の新任教師・生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外講座「閨秀文学会」に参加するようになった。
生田の勧めで小説「愛の末日」を書き上げ、それを読んだ森田草平が才能を高く評価する手紙を明に送ったことがきっかけで、二人は恋仲になった。
1908年2月1日に21歳で初めてのデートをするが、素早いことに3月21日に妻子ある森田草平と心中未遂事件を起こす。
新聞はある事ない事を面白く書き立て、平塚明の顔写真まで掲載した。明は一夜にしてスキャンダラスな存在となり、日本女子大は桜楓会(同窓会)の名簿から平塚明の名を抹消している。
遺書には「我が生涯の体系を貫徹す、われは我がCauseによって、斃れしなり、他人の犯す所に非ず」としたためられていた。
削除された日本女子大の同窓会名簿に平塚らいてうの名前が復活したのは84年後の1992年。
1911年、平塚明が25歳の時、日本で最初の女性による女性のための文芸誌「青鞜」を制作。資金は母からの援助で「娘・明の結婚資金」を切り崩したもの。
平塚明は、この資金を元に青鞜社を立ち上げた。
「青鞜」の表紙は日本女子大時代、テニスのダブルスを組んだ長沼智恵子が描き、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せた。
明は「元始女性は太陽であつた」という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて「らいてう」というペンネームを用いた。
「青鞜」創刊号は、1911年9月に発刊され、男女で両極端な反響を巻き起こした。
女性の読者からは手紙が殺到し、時には平塚家に訪ねてくる読者もいたほどだったが、
その一方で、男性の読者や新聞は冷たい視線で、青鞜社を揶揄する記事を書き、
時には平塚家に石が投げ込まれるほどだった。