そもそも中後は、アメリカに憧れを持っていたわけではなく、2015年にロッテから戦力外通告を受けた後、一度断ったにもかかわらず、ダイヤモンドバックスが二度もオファーして、中後をメジャーキャンプに招待したためだった。
2016年 4月に渡米。ルーキーリーグからスタートし、そこから順調に昇格を続け、夏場以降は3Aで13試合連続無失点(すべてリリーフでの登板)の好投。メジャー昇格目前のところでシーズンを終えた。
「エージェントからは80%くらい(メジャー昇格の)可能性があると。マイナーの首脳陣からも『間違いない』って言われていたんですけど、声がかからないまま9月5日にシーズン終了。
中後は、 近大新宮高から近畿大に進むと、球速は150キロに達し、ドラフトの注目選手のひとりとなった。そして2011年のドラフトでロッテから2位指名を受けて入団。
ロッテでの4年はあっという間に過ぎた。1年目は開幕戦に登板するなど、6月途中までに27試合に投げた。しかし、肩の痛みから夏前に戦線離脱。腱板部分断裂で後半戦は治療とリハビリに費やした。2年目、3年目はともに5試合だけの登板に終わると、4年目は一軍登板なし。オフに戦力外通告を受けた。
「4年目は、イースタンでの防御率は2.37で、途中までは1点台でした。フォアボールも問題にされるほど多くなかったんですけど、(上から)一度も呼ばれなかったですね」
違う意味でプロの厳しさを感じたなかでの解雇。制球難のイメージが首脳陣についていたことは否めなかった。
「アメリカは初球から振ってくるので、ファウルを打たせたら勝ちと思って投げています。低めのボールはこれまで感覚頼みみたいなところがあったのですが、今はある程度、意識して投げられるようになりました」
「これまでは、低めは”かいていた”だけ。小手先でコントロールしていたのが、今は腕というかヒジを上げて、手首を立てて投げています。ここを意識して投げられるようになったことでタテ回転のボールがいき、ストレートの質も上がり、インコースのコントロールもしやすくなりました」
「いちばんは考え方を変えました。監督、コーチから『とにかく楽しんで投げろ』と言われて、そう思うようにやってみたんです。そうしたら、ほんとにボールが安定しはじめたんです」
本人のなかでのいちばんの変化は、新天地で芽生えた”気持ちの変化”だった。「楽しんで投げる」──その心境に達した大きな理由は、こんな思いからだった。
「嫁さんと子どもを日本に置いてきているわけですからね」
アメリカに渡り、あらためてメンタルの大切さを感じたと中後は言う。
「プロに入ってくる選手はみんな力があります。結果を分けるいちばんの理由はメンタルだと、今は本当にそう思います。アマチュア時代は打たれても、家族もいないし、二軍に落とされることもない。でも、プロはお金をもらって、結果が出ないと二軍に落ちて、そこでダメなら野球人生が終わり、給料もなくなってしまう。まさに去年の僕がそうでした。大事なのは、壁にぶち当たったときにどういう受け取り方、考え方をするか。日本にいるときの僕は、『肩が痛い』とか『使ってくれないから』とか、そうしたことを理由にしていました。そういうことがアメリカに来て変わり、ボールも変わっていったんだと思います」
「1年で、ルーキーリーグからローエー、ハイエー、ダブルエーは飛んでトリプルエー。『こんなうまいこといってええんかな』と。そこはちょっと自信になりました」
そして長いシーズンを終えたとき、自らの心境の変化にも気づいたという。
「今、パッと投げている自分の姿を思い浮かべる場所は、日本じゃなくアメリカなんです。メジャーに興味がなかった僕がですよ。メジャーの話題が出るようになってから、徐々に『挑戦してみたい』『あのマウンドで投げてみたい』と思うようになりました」
日本復帰の可能性を問うと、中後は間髪入れずこう返してきた。
「日本へ戻る条件は年俸ですね。もちろん、日本が恋しいですし、家族と一緒に暮らしたい思いもありますが、生活するために必要なものは必要ですから。でも、まだまだ結果を残さないと何も言えないですけど……」
生活設計を口にできるようになったのも、1年間をやり終えて、手応えを感じたからなのだろう。
「来年のメジャーですか? 無理でしょう。今年だってメジャー間近とか言われましたけど、3Aでたかだか13試合に投げただけ。そんな甘くないですよ」
アメリカ野球の深さと大きさ。うかつに「メジャー」を口にできない実感も、今年1年間の戦いのなかで学んだのだろう。