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「宣教師から見た本能寺の変」

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「宣教師から見た本能寺の変」
 
1528620日水曜日(天正1062日)の夜明けに起こった本能寺の変についてルイス・フロイスは「日本史」で、以下のように記している。
 
 
この事件は町の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、たまたま起こった騒動くらいにしか思わず、事実、当初はそのようにいいふらされていた。
 
私たちの教会は、本能寺からわずか一街を隔てただけの所にあったので、数名のキリシタンが教会に来て早朝のミサの支度をしていた司祭に御殿の前で騒ぎが起きているからしばらく待つようにと言った。
 
そして、そのような場所で争うからには重大な事件であるかもしれないと報告した。
 
事件の背景は、織田信長が備中(岡山県)の高松で毛利氏攻略に苦戦している羽柴秀吉を支援するためわずかばかりの兵をともなって安土城を出て、途中で本能寺に宿泊したことだ。
 
これを、信長の命令で秀吉の援軍として13000の兵を率いた明智光秀が襲った。光秀は、居城・亀山城を出ると、途中で急に進路を変え京都に進軍した。
まもなく銃声が響き、火がわれわれの修道院からも見えた。次の連絡が来て、あれはけんかではなく明智が信長の反逆者となって本能寺を包囲したと伝えた。
 
明智の軍勢は御殿の門に到着すると、まっさきに警備にあたっている守衛を殺した。内部では、このような反逆を疑う気配はなく、御殿に宿泊している若い武士たちと奉仕する茶坊主と女たち以外には誰もいなかったので明智勢に抵抗する者はいなかった。
 
明智勢が本能寺の中に入るとちょうど手と顔を洗い終え、てぬぐいで体をふいている信長を見つけたので、直ちにその背中に矢を放ったところ、信長は肩に刺さった矢を引き抜き、長刀を手にして出てきた。
 
そして、しばらく戦ったが腕に傷を受けるとみずから部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したといわれ、また他の者は、信長は直ちに御殿に放火し生きながら焼死したといった。
だが、火事が大きかったため、どうして信長が死んだかは分かっていない。
われわれが知っていることは、その名だけで万人を戦慄せしめた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものはひとつもなく信長のものとしては地上になんら残存しなかったことである。

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