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ジャニー喜多川の数奇な運命

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ジャニー喜多川は、ジャニーズ事務所、ジャニーズ出版、ヤングコミュニケーションの代表取締役社長。ロサンゼルス生まれ(両親は共に日本人)。 
 
ジャニー喜多川の父親・喜多川諦道(きたがわたいどう。1896年生まれ)は、8歳で出家し、和歌山県高野山の導師となる。高校時代は甲子園にも出場したようだ。
 

 師の僧正が大隈重信や後藤新平らと親しくしていたことから、諦道も海外への思いを強めるようになり、諦道を可愛がっていた和歌山市の有力者・大谷貴義(児玉誉士夫と並び「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた人物)からの援助を受け、諦道は真言密教の布教のために19242月より世界一周の旅に出発した(当時27歳)。

そしてロサンゼルスのリトル・トーキョーの一角にある高野山真言宗米国別院(1912年設立)に到着し、23ヶ月助法するつもりが、当時の主監が急に帰国することになったため、急遽、諦道が第三代主監となる。以後、1933年までの9年間、米国大使教会の運営を務めた。 諦道は活発な布教活動に精を出し、ロスの日系人社会の顔役となる。寺院には説教用の集会場として「高野山ホール」というステージも建設した。

ハリウッドのランドマーク「グリフィス天文台」の麓に居を構え、妻・栄子も呼び寄せた。そして生まれたのが、泰子(メリー喜多川)、真一(まさかず)、そして擴(ジャニー喜多川)の三兄弟だった。

 

1933年、一家はサンフランシスコ港から貨客船に乗って横浜港に到着し、大阪に住んだ。 諦道は道頓堀にあった法安寺の住職の世話で、後にプロ野球チーム「ゴールドスター」のオーナーとなる、橋本三郎の下で働くようになった。

 

やがて第二次世界大戦が始まり、1942年(ジャニーは当時10歳)、父・諦道だけが大阪に残り、三姉弟は、和歌山市の有力者・大谷貴義が和歌山県那智勝浦町に持っていた島「中ノ島」の南紀勝浦温泉に身を寄せて疎開。 大谷家との繋がりは、元々、諦道の父母が大谷家で世話になっていたことがきっかけであった。ジャニーはこの「中ノ島」から尋常小学校へ、更に、坊主頭に詰襟の制服を着て旧制中学校へと通った。

 
 中学2年の夏、ジャニーは和歌山市で、194579日深夜から710日未明にかけて、「和歌山大空襲」に遭遇したが、無事に逃げおおせた。

一方、三姉弟と離れて大阪で暮らしていた父・諦道は、かつて甲子園に出場した経験も買われてか、橋本三郎が19462月に大阪で創設したプロ野球チーム「ゴールドスター」〔後の金星スターズ、大映スターズ〕のマネージャーとなっていた。

その後、諦道は同球団オーナーの親族が経営する心斎橋の煎餅屋「杵萬」に居候するようになり、やがて昭和40年代にそのまま「杵萬」で逝去する。 
 

19473月にジャニーが旧制中学校を卒業すると、三姉弟は「市民権(米国籍)が無くなってしまうから」との理由で渡米し、再びロスに移り住む。そしてジャニーはロスの高校に通った。

 高校卒業後は、姉のメリーと同じロサンゼルス市立短期大学Los Angeles City Collegeへ進学。ちょうどその頃、かつて父が説教用の集会場として寺院に建設したステージ「高野山ホール」を、日本からやって来るスターたちが次々に利用するようになった。

まず、1950年に田中絹代が日米親善芸術使節として訪れた。そして、笠置シヅ子&服部良一(195061日~3日)、大河内伝次郎、山本富士子(1951年、初代ミス日本としての公式訪米)、古賀政夫、ディック・ミネ、高峰美枝子、二葉百合子など、そうそうたる面々が寺院のステージに立った。ジャニーはその度に、現地コーディネーターと通訳を買って出ていた。 19505月に美空ひばり(当時12歳)が、人気絶頂だった川田義雄と共に公演の為に渡米した際も、このステージがロス公演の会場となった為、ジャニーはステージマネージメント全体を担当。川田義男の知遇を得ると共に、美空ひばりとも交流を深める。これらの事が、やがてジャニーが日本芸能界に進出を志すきっかけとなった。

 
ロス市立大学を卒業したジャニーは、メリーと共にハウスボーイ(家政婦業)をして生計を立てていた。優秀だった兄はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)を卒業し、航空機メーカー「ノースアメリカン・ロックウェル」のエンジニアとなっていた。
 

1952年、アメリカ国籍だったジャニーと兄には兵役義務があり、当時勃発していた朝鮮戦争に徴兵される。 兄は、パラシュート部隊に配属され、ジャニーは、韓国の戦災孤児に英語を教える任を命ぜられた。広島県江田島市の海軍兵学校跡地を使用した米軍の学校で朝鮮語を習得する為、アメリカ陸軍犯罪捜査司令部(CID)の情報員という肩書きで再来日する。そして僅か10ヶ月でハングル語をマスターし、韓国の板門店に出向いて、12ヶ月間に渡って子供たちに英語を教えた。

(朝鮮戦争後の兄は、ロサンゼルスに住みながら、前出のノース社でNASA関連の仕事をし、アポロの設計にも携わったが、1985年、くも膜下出血で倒れる。メリーが日本に連れ帰り、大阪の病院に入院させるも、50代半ばで逝去した)

 

ジャニーは除隊後、アメリカへ戻らず、日本に滞在。上智大学国際部に社会人入学し、1955年にはバンドを結成して自らも芸能界へ参入した。大学卒業後にバンドは解散。

 

その後、英語力と滞米経験を買われ、ワシントンハイツ(渋谷区神園町)の独身米軍士官向けの4階建ての宿舎に住みながら、1958年より駐留米軍の一セクションである「軍事援助顧問団」の事務職員として、六本木の防衛庁に在った顧問団の事務所に勤務。

そのかたわら、1962年、最初に手がけたアイドルグループ「ジャニーズ」を結成させて、タレントのプロデュース業にシフトしていく。マネジメント活動が忙しくなったため、1966年、正式に退職し、ジャニーズの経営を本格化させた。


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