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「大黒屋光太夫の帰国」

「大黒屋光太夫の帰国」
大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう、1751年~1828年)は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。
 
178212月、光太夫は船員ら16名とともに紀州藩の米を積み、伊勢国白子の浦から江戸へ向かい出航するが、駿河沖付近で暴風にあい漂流する。7か月あまりの漂流ののち、一行はアラスカのアリューシャン列島のアムチトカ島へ漂着。そこで、毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇した。
彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得。4年後(1787年)、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出する。
その後カムチャツカ、オホーツクを経由して1789年、イルクーツクに至る。
 
やがて、ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクでロシア皇帝エカチェリーナ2世に謁見し、帰国を許される。
日本に対して漂流民を返還する目的でアダム・ラクスマンに伴われ、漂流から約10年を経て1792年、磯吉、小市と3人で根室へ上陸、帰国を果たしたが、小市はこの地で死亡、残る2人が江戸へ送られた。
 
光太夫を含め遭難した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、新蔵と庄蔵の2名が正教に改宗したためイルクーツクに残留、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけであった。
 
帰国後は、11代将軍徳川家斉の前で聞き取りを受け、その記録は桂川甫周が『漂民御覧之記』としてまとめ、多くの写本がのこされた。海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は、蘭学発展に寄与することになった。
 
光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に関して防衛意識を強めていくようになった。
 

その後、光太夫と磯吉は江戸・小石川の薬草園に居宅をもらって生涯を暮らし、ここで光太夫は新たに妻も迎えて、平穏な暮らしを手に入れたようだ。

なお、三重県鈴鹿市には光太夫の行方不明から2年後に死亡したものと思い込んだ荷主が建立した砂岩の供養碑があり、1986年に鈴鹿市の文化財に指定されている。

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