英一蝶の運命
軽妙洒脱な風俗画で一世を風靡した英一蝶(はなぶさ・いっちょう)は、江戸の元禄時代、5代将軍・徳川綱吉のころに活躍した。
ところが、1698年、徳川綱吉の愛人・お伝の方を遊女(今でいうフーゾクの女性)に見立てた風刺画を描いたことが幕府の逆鱗に触れ、英一蝶は江戸を追放され、伊豆諸島の三宅島に島送りとなった。
島送りとなる当日、多くの友人が見送りに来たが、その中に俳人の宝井其角もいた。
別れに臨み一蝶は其角に言った。「三宅島のクサヤの干物は江戸にも送られる。三宅島で干物づくりの商売をし、私の作った干物には、エラに笹の葉をさしておく。笹の葉のついた干物を見たら、私が無事でいると思ってほしい。」
それから其角は、江戸の魚屋へしばしば足を運びクサヤを観察していたが、しばらくたって初めて笹の葉のついたクサヤを発見した。そこで、其角は友人や縁者を招いて一蝶の無事を喜び合い、ムロアジのクサヤを前にして「島むろで 茶を申すこそ 時雨かな」の句を詠んだ。
1709年に将軍・徳川綱吉が死去したため英一蝶は許され、12年ぶりに江戸へ帰った。