日本は1904年2月、満州のロシア軍を攻撃し、ついに日露戦争が始まった。
日本は苦しい戦いを続けながら、ついに勝利した。そして、アメリカの仲立ちでロシアと講和条約を結んだ。
アメリカはなぜ仲立ちをしてくれたのか?
日露戦争は、日本が独立国として生き残ることが出来るか、ロシアの植民地同様の国になるか分かれ道になる戦争だった。日本よりはるかに大きい軍事力を持つロシアと戦った日本は、世界の予想に反して勝ち続けた。
しかし、その勝利は薄氷を踏むような危なっかしいものだった。
日本海海戦で勝利した時点で、軍事費は国家予算の8年分を使い切ってしまった。日本国内には補充する兵隊はもう残っていなかった。
一方、満州にはロシア軍が新手を補充して80万人以上の大軍となっていた。
日本軍は25万人で弾薬も底をついていた。これ以上戦争が続くと満州で壊滅的な打撃を被ることが予想された。
何とか、戦争を終わらせたい日本政府はアメリカに派遣していた金子堅太郎を通じてアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の仲立ちをしてくれるよう依頼した。
ルーズベルト大統領は金子とは同じハーバード大学卒業で、以前から友だちづきあいをしていたため、こころよく引き受けた。
講和会議は1905年8月10日からアメリカのポーツマスで行われた。ロシア皇帝は交渉に当たるウィッテに「いかなる場合にも1ルーブルの賠償金、一握りの領土も日本に渡すな」と厳命していた。そのため交渉は困難を極め、決裂しかかった。このとき、ルーズベルトが日本を救った。ルーズベルトは次のような妥協案を提案して、両国に譲歩を求めた。
「日本は賠償金の要求を撤回する。ロシアは樺太の南半分を日本に譲る」
どうしても、戦争を終わらせたい日本にとっては、この提案は願ってもないものだった。
ロシア皇帝も国内に厭戦気分が起きていたこともあり、ルーズベルトの顔を立てて、妥協する決心をした。
ルーズベルトが日本に肩入れをしたのは、金子との友情からだけだったのか?
そうではない。ルーズベルトは、ロシア皇帝の専制政治を不快に思っていた。
いっぽう、日本は開国してまだ50年ほどしかたっていないが、積極的に欧米の新しい政治思想を取り入れて立憲政治を行っていることに好感を持っていたからだ。
こうして、日本は、ルーズベルトが救いの手をさしのべてくれたことによって、破滅から救われた。