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「板垣退助が国会議員にならなかった理由」

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「板垣退助が国会議員にならなかった理由」
 
 板垣退助が、1874年に民撰議院設立建白書を政府に提出したことから自由民権運動はスタートした。

 自由民権運動は、明治政府を支配しているのは薩摩、長州閥であると指摘し、国民の政治参加を求め、国会開設を要求した。

 
1881年、北海道開拓使官有物払い下げ事件が発覚し政府は10年後に国会を開く約束をした。ここから、政府と自由民権派のせめぎ合いが始まる。
 

 自由民権派は、国会開設に向けて、1881年、板垣退助が自由党を、 1882年、大隈重信が立憲改進党をつくった。

 
 政府は、自由民権運動の集会や演説を弾圧した。さらに、国会に対向するために1885年、内閣制度をつくり伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。
 
また、自由民権運動の英雄・板垣退助には天皇自ら貴族になることをすすめた。
 板垣退助は、これを2度断ったが、「天皇の申し出を3度も断るのは失礼である」という周囲の意見もあり、1887年、3度目にして、やむなく伯爵位を受けた。
その結果、衆議院選挙に立候補できなくなり、貴族院議員になることは、板垣退助自身が辞退したため、帝国議会に議席をもつことはなかった。
 
その上に、政府は1889211日、大日本帝国憲法を発布した。
 国会が法律を作る機関であるのに対向して憲法はあらゆる法律の上に立つ法なので、先回りして憲法をつくっておけば、翌年から開かれる国会で政府にとって都合の悪い法律が出来そうなときは「それは憲法に反する」と主張することができる。
 
 1890年に行われた第1回衆議院議員選挙では、選挙権は、直接国税15円以上を納める25歳以上男子に限られたため、選挙権があったのは国民の1.1%に過ぎなかった。100人に一人の大金持ちにしか選挙権を与えなかったことは、そのような大金持ちが政府に反対するとは考えにくいため、これまた、明治政府の巧妙な施策であると感じた。
 
わたしには、第1回衆議院議員選挙は、 2011年、アメリカのウォール・ストリートで
「We Are The 99」と書いたプラカードを持って、「アメリカは99%の貧民と1%の大富豪に区別される」と訴えてデモ行進をおこなっていた画像とダブってしまった。

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