浜口梧陵は、幕末に紀州藩の勘定奉行や藩校教授を歴任し、1871年に大久保利通の要請で明治政府の初代駅逓頭(後の郵政大臣)となった。しかし、浜口梧陵は江戸時代にあった飛脚制度を発展させた郵政民営化を考えたが、これが明治政府の方針(国営化)とあわず、大臣を辞任した。130年後、21世紀になって郵政が民営化され、浜口梧陵がいかに進んだ考えを持っていたかが証明された。その後、再び和歌山に戻って1880年に初代の和歌山県議会議長を務め、隠居後に念願の海外旅行の途中で体調を崩しニューヨークで1885年に客死してしまう。
「稲むらの火」より現実の浜口梧陵のほうが、はるかに高潔な魂と、際立った人間愛、英明な頭脳を持ったリーダーであり、まれに見る義の人であった。
広村の村人たちが梧陵の積年にわたる恩に報いるため「浜口大明神」なる神社を建てようとする動きがあった。しかし、梧陵は「わたしは神ではない」と、頑としてそれを許さなかった。
ラフカディオ・ハーンが「生ける神」と書いた浜口梧陵は、この物語の世界以上に「生ける神」と呼ぶにふさわしいすごい人物といえる。
今の政治家や経営者の中から、浜口梧陵のように100年以上経っても尊敬され、さらに世界的評価がなされ、神様のように語り継がれる人物が何人か出てこないものか。