1946年に長崎で生まれた高嶋仁監督。高校は長崎・海星に進み、2年夏(1963年)に左翼手で、3年夏(1964年)に中堅手として甲子園に出場した。
しかし、2年夏は1対7で大宮(埼玉)に、3年夏は早鞆(山口)に2対10で完敗。勝利こそつかめなかったものの、開会式で甲子園の土を踏んだ際、「指導者になって帰ってくる」と決心した。
その思いを実現させ、監督として智辯学園で3回、智辯和歌山で32回、甲子園に出場。センバツには13回出場して26勝12敗、優勝1回。夏の甲子園は22回出場して37勝20敗、優勝2回。高校野球史に名を残す名監督となった。
■「ナニクソ」の反骨精神で培った監督力
しかし、最初からすべてが思い通りに進んだわけではなかった。
特に智辯学園時代には、試合に負けると「学校を潰す気か!」と理事長から激しく叱責され、いざ甲子園に出場しても、かけられたのはねぎらいの言葉ではなく「いつ優勝するんだ?」のひと言だった。
1994年に智辯和歌山でセンバツ優勝を遂げたときにも、「甲子園には2本の旗がある」と、常にさらなる結果を求められた。
このような、常に逆風が吹き荒れるような状況でも戦ってこられたのは、自らを「ナニクソ」と奮い立たせてきたからだという。
■「史上最強打線」で圧倒
1985年に智辯和歌山の監督に就任した高嶋はチームを全国屈指の強豪に育て上げる。1987年の夏を皮切りに、春のセンバツに11回(21勝10敗)、夏の甲子園に21回出場(35勝19敗)と勝ちまくった。3度の優勝はいずれも智辯和歌山で成し遂げたものだ。
特に2000年夏の甲子園を制したチームは「史上最強打線」として名高い。1985年のPL学園が達成した大会通算10本塁打を塗り替える11本塁打を放ち、大会通算100安打という史上初の3ケタ安打を記録。猛打の智辯和歌山の名を轟かせた。
もちろん県内でも無類の強さを発揮し、1996年から2000年にかけては5年連続で、2005年から2012年にかけて8年連続で和歌山を制して、夏の甲子園に出場。和歌山の高校野球界を圧倒してきた。
■圧倒的に強い智辯和歌山が帰ってくるか!?
現在、高嶋監督の「圧倒的な強さ」はやや影を潜め、甲子園に出場しても成績は芳しくない。また、昨年のセンバツから3季連続で甲子園を逃している。
だが、今年のチームは春の和歌山県大会で優勝。「10点獲る」と目標を掲げて臨んだ決勝戦では、その目標をクリアした。近畿大会では大阪桐蔭に3対6で敗れたが、夏に向け、高嶋監督は仕上がりに手応えを感じているようだ。
また、1997年の夏の甲子園で優勝したときの主将・中谷仁(元阪神ほか)がコーチに就任。プロを知り、甲子園で勝つことを知る人材がチームに加わったことも大きい。今夏、圧倒的に強い智辯和歌山を率いて高嶋監督が甲子園に帰ってくるか。
私にとっては、高嶋監督は日本一の監督で、常に尊敬しています。何といっても、自分の教え子を何人も智辯和歌山にとってくださいました。
智辯和歌山の甲子園での復活を楽しみに追いたい。