奇兵隊は、あの高杉晋作が、四民の枠を超えて、創設した軍隊で、幕末最強の軍隊とされている。
ところが、奇兵隊よりも3年も早く創設され、同じく四民の枠を超え、しかも無敵の奇兵隊と戦って、奇兵隊に勝った軍隊が実際にあった。
歴史は、勝者が作り上げたものなので、勝者の都合のよいように書き換えられるのは、よくあることだ。
高杉晋作の奇兵隊よりも強かった軍隊とは、フルネームで「日本体育共和軍隊」という。
奇兵隊創設よりも3年早い、万延元年1860年に、紀州和歌浦の僧、北畠道龍によって創設されている。
しかも、経緯の良く似た二つの「隊」は、第二次長州戦争において、直接に戦った。そのすべての戦いで、長州側が勝っていた、とばかり思っていたのだが、山陽側の最後の戦いにおいて、日本体育共和軍隊が奇兵隊を破った。
この軍隊は、道龍が法福寺の住職で、この場所で旗揚げしたことから、法福寺隊の名前で称されることが多い。
明治維新という「革命」は不思議な革命で、ビジョンがはっきりしないまま、進行した。唯一のビジョンは、新政府が、紀州藩の津田出にビジョンのお伺いを立てたことによったが、これは司馬遼太郎の小説にも出ていた。
津田出は「廃藩置県」「四民平等」「徴兵制をしく」というビジョンを明治政府に示した。
津田出の、ブレインとも言っていい人物が、道龍だった。
明治維新は、四民平等、国民皆兵、廃藩置県などで実現したといえるのだが、このすべての「改革」を、まず紀州藩で実現したのが、津田出であり、北畠道龍だった。
道龍の目論見では、廃藩置県に対して、どこかの藩が、反乱をするのではないか、と言うことだったらしい。この時点で、日本最強の軍隊は、奇兵隊などの長州藩でもなく、薩摩藩でもなく、すでに近代化を成し遂げていた紀州藩だった。
当時の紀州藩は、「小さいプロシャ」とも称されるぐらいに、「近代国家」の様相を呈していたとされ、当然、この改革の中心が津田出と北畠道龍だった。
もし、1871年の廃藩置県で、どこかの藩の反乱があれば、さっそうと紀州藩が活躍したことは間違いなかったが、反乱を起こした藩は一つもなく、出番を失った。
ところが、1877年に西南戦争が起き、政府軍の中心に鍛え上げられた紀州藩出身の兵士が多数いて、薩摩藩士族の西郷軍と戦い、熊本から鹿児島に追い詰めて全滅させた。