「東風吹かば におい起こせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
910年1月25日、菅原道真は大宰府に左遷された。
このとき、邸宅の庭の梅の木に別れを惜しんで詠んだのがこの句だ。
東風とは、東方から吹いてくるやや荒い風。春を告げる風とされている。
邸宅の梅は、道真を追って、一晩で大宰府まで飛んできたといわれている。
「飛梅」と呼ばれ、大宰府天満宮の御神木となっている。
そして、毎年、ほかの梅に先駆けて美しい花を咲かせ、香りを楽しませてくれている。
菅原道真は、藤原氏全盛の平安時代に、藤原氏と血縁がないにもかかわらず昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、藤原時平と道真が左右大臣として肩を並べた。
しかし、家格を超えて大臣に登るという道真の破格の昇進に対して妬む貴族も多く、翌・昌泰3年(900年)には文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。
昌泰4年(901年)1月に従二位に叙せられたが、間もなく藤原時平によって「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」とウソの告げ口をされ、それを信じた醍醐天皇は、道真を大宰府に左遷する。また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。
菅原道真は、大宰府に左遷されるときに和歌浦に立ち寄っている。
一生に一度、和歌浦を眺めたかったのだろうか?京から大宰府に行くのに、和歌浦に寄らなくても行けるはずだ。
左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、2年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府で亡くなった。享年59。
画像は、太宰府天満宮に今もある飛梅。満開になるのは2月。