斎藤吉は、1841年11月10日、愛知県知多郡内海に、船大工市兵衛の次女として生まれる。4のとき、家族とともに下田に移住。14歳で芸者になるが、美貌の持ち主と評判だった。
ところが、16歳のとき、お吉の運命に転機が訪れた。
1857年、アメリカ総領事ハリスが事務所とした下田玉泉寺に多額の報酬と引き替えに奉公にあがる娘として「下田の花」とも云われたお吉が選ばれた。
当時の覚書によると、
一金二十五両、右は玉泉寺滞在の異人よりきち(吉)仕度金の為
書面の金子相渡り候段、申聞かせられ金子御渡成され慥に請取申候也。
きち、姉もと、同人母きわ(印) 安政四丁巳年五月廿四日、町方御役人衆中
と記されている。
お吉を一躍有名にした、玉泉寺奉公はこの5月24日から始まって、8月22日まで三ヶ月続いた。
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ところで玉泉寺に奉公に出た少女は、お吉以外にお福、おさよ、お清、お松の4人がいた。何れも15歳から17歳で、中でもお吉の奉公が最も期間が短かった。
•お吉 (安政4年5月24日~8月22日)
•お福 (安政4年5月27日~10月4日)
•小夜 (安政5年7月1日~12月14日)
•お清 (安政5年2月5日~12月5日)
•お松 (安政5年2月12日~安政6年2月9日)
どうしてお吉ばかりが有名になったのかというと、玉泉寺の主人である日本総領事タウンゼント・ハリス専属であったためだ。
ハリスは52才で来日 慣れない日本で体調をくずし、「看護人」を要求した。
日本側は、交渉を円滑にすすめるため「ここぞ」とばかりに美少女を送り込んだ。
この時 お吉は16才。14才から芸者となり、「下田一」とうたわれていた。
幕府は、お吉に 支度金25両 年俸120両を報酬として支払う、恋人の鶴吉を武士に取り立てる、などの条件で、むりやりハリスのもとに送り込んだ。
当時、外国人の召使の月給は1両2分が相場。幕府がどれほど破格の扱いをしたかが分かる。
しかし、この破格の条件が、地元の人たちの妬みやひがみの対象となり外国人に奉公することが偏見の標的となった。
のちに、お吉は髪結いになったり、芸者にもどったり、一時は、店を持たせたりしてもらったこともあったが、わずか3か月の奉公であったにもかかわらず、世間の妬みはそれを許さず、不遇の生活を送った。
幕末の混乱の中で10歳代後半の斎藤吉の写真は、ひじょうに美しい。
もし今の時代なら、可愛いアイドルとなって、人気を集めることができたかもしれない。
国際結婚など当たり前の今の時代に生まれたら、きっと幸せな結婚をし、普通の主婦になっていたはずだ。
この写真をみるたび、そんな残念な気持ちが胸を打つ。
けど、現在は自由な時代だ。好きなもの同士が愛し合うことは自然なことだ。