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Channel: 悠々美術館通信
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「神奈川から横浜へ」

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「神奈川から横浜へ」
 
1854年に結ばれた日米和親条約は、たったの4年で廃止された。
開港された2港が下田、函館では、アメリカの不満も大きかっただろう。下田は伊豆半島の南の端に位置し、リアス海岸で山が海になだれ込んだような地形で、とても、日本を代表する港湾とはいいがたい。
函館も、いまでこそ北海道の表玄関だが、江戸時代は蝦夷地とよばれ、幕府から大切にされていたとは言い難い境遇の地だった。
しかも、1853年、ペリーによって届けられたアメリカ大統領フィルモアの国書には第一に貿易を始めることを求めていたが、江戸幕府は認めなかった。
 
そのため、1858年、日米修好通商条約が結ばれることとなる。新しい条約は、アメリカの領事裁判権を認め、日本に関税自主権がないなど不平等な内容が盛り込まれていることに大きな問題がある。
しかし、開港された港は5港に増え、函館をはじめ神奈川、兵庫、長崎、新潟が開港された。なかでも、神奈川は江戸に近く、貿易を始めようとするアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアは期待をかけた。神奈川とは、現在の横浜市神奈川区東神奈川町、西神奈川町である。
 
ところが、江戸幕府は、条約を結んだあと、神奈川だと都合が悪いことに気づいた。
 
それは、神奈川が東海道五十三次の宿場町のひとつで、貿易に訪れた欧米人が日本の武士や庶民と交流を持つことが、きわめて具合が悪いと考えたようだ。
そこで、幕府は、こっそりと隣村の横浜に開港地をすり替えた。これだと、欧米人を直接見たり交流する機会は激減する。
 
しかし、江戸幕府のすり替えを知ったアメリカやイギリス領事は猛然と抗議した。しかし、横浜が良港であったためやがて抗議は収まり、各国の商館がつぎつぎと建設された。
港町横浜は、神奈川が東海道五十三次の宿場町であったことと、横浜が良港であったため
東京につぐ大都市として発展を遂げた。

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