大阪の陣
関ヶ原の戦いの勝利によって、徳川家康は1603年江戸幕府を開いた。
しかし大阪には、豊臣秀頼母子が、名城大坂城で隠然たる勢力を保持していた。家康は、秀吉の遺言を守って、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせるなどして豊臣家に恩を売った。1605年、家康は老齢を理由にわずか2年で将軍職を退き、その跡を嫡子秀忠に譲った。家康はこれによって将軍職は徳川家の世襲であることを内外に示した。
家康は豊臣家に対して、京都大仏殿の再建を依頼し、大仏殿が完成間近に迫った段階で、家康はその鐘銘(国家安康・君臣豊楽)に理不尽な言いがかりをつけて豊臣家を窮地に追い詰めた。
理不尽な言いがかりであったことは、この鐘が現在も残っていることから明白である。
豊臣氏を滅ぼすことが目的であり、滅ぼした途端、鐘のことは忘れてしまったのだ。
冬の陣
豊臣側は豊臣秀吉に恩のある大名たちに来援を求めたが、大名たちは徳川家康を恐れ、1人もこれに応ずる者はいなかった。豊臣側が頼りにしたのは紀州九度山から駆けつけた真田幸村をはじめとした10万人の牢人と、難攻不落の名城の堅い守りのみであった。
1614年、大阪方の挙兵を待ち望んでいた家康は、ほとんど全国の大名を動員して総勢およそ30万、史上最大といわれた大軍勢を指揮して大坂城を包囲した。しかし、大阪城の守りは堅く、長期戦を不利とみた家康は、秀頼の母淀殿らの戦争恐怖心をあおり、城中に和議締結の気運を高めさせた。家康のねらいは和議により大坂城の堀を埋め、この城の防御力をなくすことにあった。1614年12月、ついに和議は成立した。和議では、ひとつの堀をつぶすだけとなっていたのであるが、家康はそれを破り、すべての掘りを埋めてしまった。これによって大坂城はもはや難攻不落の名城ではなくなった。
夏の陣
約束外の堀まで埋められ、改めて家康不信の念を強くした大阪方は、再戦必至とみて、武器、弾薬、兵糧をあつめ、あわてて戦争準備を始めた。家康にとってこれは再戦のよい口実になった。家康は1615年4月18日、京都に到着し、5月5日、家康、秀忠に率いられる本隊は大坂城を目ざした。これに対し、堀をなくした大阪方は全員出撃に決し、5月6日の夜明けから激戦が行われた。しかし戦いは大坂方に利あらず、翌7日、最後の決戦が天王寺を中心に行われたが、ここでも大坂方は善戦のすえことごとく敗北。城も火を発してこの日のうちに落ちた。最後まで秀頼とともにあった大野治長は、秀頼母子の助命を嘆願させるため千姫を城外に脱出させたが、それも空しく、秀頼母子らは翌8日、焼け残りのやぐらの中で自殺し、豊臣氏は滅亡した。
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