「福沢諭吉からみた華岡学徒」
華岡青洲は、1804、世界で最初に麻酔による外科手術(乳がん)を成功させた。
この快挙を知った人々の中には、ぜひ華岡青洲のもとで医学を学びたいと紀州にやってくるものもたくさんいた。華岡青洲は、そういった願いを持った人々を弟子として受け入れ、起居をともにしながら学ばせるために春林軒を造った。
しかし、春林軒に教えを乞う人々が詰めかけて、満杯になったため、1817年、新しく大阪にも学生を迎え入れるための施設を造り合水堂と名付けた。
合水堂で診察と門弟の指導を行ったのは華岡青洲の末弟・鹿城(ろくじょう)だった。
合水堂は大阪でも非常に評価が高く、福沢諭吉が通っていた適塾と名実を二分した。
福沢諭吉は「福翁自伝」の中で、当時の様子を記述している。
「適塾の近く、大阪の中之島に華岡という漢医の大家があり、その塾・合水堂の学徒たちは裕福な家の出身らしく服装も立派で、われわれ蘭学生とは比べ物にならない。道でばったり出会っても、言葉をかけあうことはなく互いに睨み合っていき違う。」というのだから、ひじょうに厳しいライバル意識があったようだ。
適塾の学徒は「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と福沢諭吉が述懐したほど犬猿の仲であった。
教育者として名高い福沢諭吉が、道ですれ違う時、相手と睨み合った時期もあったのかと
驚かされる。
合水堂は、漢方と蘭方を折衷した医学の専門塾であり適塾は、蘭方のみを採用しオランダ語で医学をはじめヨーロッパの科学なども学んだ。
そのため、合水堂出身者は、医学をつらぬき、医学でもって人々の命や健康を守った。
いっぽう、適塾出身者は、福沢諭吉をはじめ、医学もさることながら政界、財界、教育界などさまざまな分野で活躍した。
江戸後期、大阪は合水堂と適塾、さらにもう一つ倫理・道徳を教授する懐徳堂があり
経済の中心地であるだけではなく学問の中心地でもあった。