「紀州」と言えば、ひょっとしたら、CHOYAの梅酒「紀州」を思い出す人が多いのかもしれない。
しかし、紀州の成立は古く、2013年がちょうど1300年周年だった。
7世紀には「木の国」であったが、8世紀に「紀伊国」とかわった。
厳密にいうと変わったのは713年(和銅6年)。
この年、勅令が出て、「雅字(良い文字の意)二文字で国名を表すように」と
指示されたためだ。「木」を「きい」と伸ばして発音していたため「きい」が「紀伊」となった。
紀伊国は歴史が古く、「古事記」では、神武天皇が大和に入る時に紀伊熊野を通ったとされるなど、事実はともかく、奈良盆地を地盤とするヤマト王権から知られた国であった。
天皇や皇后の紀伊行幸で史料に現れた確実な例は、斉明天皇の658年、紀温湯(白浜温泉)行幸である。この11月に有馬皇子の事件が起きた。
平安時代後期に熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の連合体)が成立し、最大の権力者である上皇の熊野御幸が行われるようになると、熊野古道が整備され熊野詣が流行った。さらに、紀三井寺、空海の高野山・金剛峯寺、道成寺、根来寺など巨大な寺が紀州に建てられた。
平安時代末期には、紀伊の国にも武士団が勃興し、湯浅地方を中心に湯浅党、田辺・新宮に熊野別当家を総帥とする熊野水軍が勢力を伸ばした。
湯浅党の武士団は平氏方、熊野水軍は源氏方として源平合戦にも関与した。
室町時代は畠山氏が守護となったが、寺社勢力が強大なために、その支配力は限定的なものにとどまった。
戦国時代には、ルイス・フロイスが「紀州の地には五つの共和国的な存在があり、いかなる権力者もそれを滅ぼすことができない」と述べているが、雑賀衆に代表される国人衆や寺社勢力が割拠する状態が続いた。
五つの共和国とは、雑賀、根来寺、高野山、粉河寺、熊野のことである。
戦国時代を統一する動きの中で1577年、織田信長が紀州攻めを敢行。
これは何とかしのいだが、1585年、羽柴秀吉による紀州攻めによって、有力農民が割拠して戦国大名が存在しなかった惣国・紀州は終焉した。
紀伊の最有力勢力である雑賀衆と根来寺は、1584年、豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いの際、徳川家康方につき、羽柴秀吉の留守に乗じ岸和田城や大坂に侵攻した。
しかし、1585年、羽柴秀吉は、3月20日に出兵し、和泉の諸城で紀州勢を破り、その勢いで紀州に攻め入り、3月23日に根来寺を焼き討ちした。
紀州の国人や各地の戦闘で敗れた残党なども加わって太田城で抵抗したが、秀吉は水攻めで約一ヶ月後に降伏させた。平定後、秀吉は刀狩りを命じ、和歌山城を築城した。
「和歌浦」という地名は「万葉集」にもよく歌われているが、「和歌山」という地名は1585年の豊臣秀吉の紀州攻め以降に出たものである。
しかし、秀吉の世はわずか8年で終焉し、1603年、江戸幕府が成立。紀州は御三家となって、大いに栄えた。徳川家康が、尾張、水戸とともに紀州を御三家に選んだ背景には1584年に秀吉と小牧・長久手で戦った際、紀州が家康側についたことも大きかったのかもしれない。