西行
西行(さいぎょう)は、自らの出自を秘匿し、多くを語らなかったため前半生は不明なことが多い。しかし、出生地は紀伊国竹房(現・紀の川市竹房)であることがわかってきている。
それは、「高野山文書」に佐藤家の領地・田中荘と隣の高野山領・荒川荘の境界争いの記述があり、佐藤家の系図に西行の俗名・義清(のりきよ)があるのが発見されたためだ。
西行は、もとは佐藤義清といって、院庁の北面に控え、上皇・法皇やその寵愛を受ける女院を警備し、熊野詣などの御幸などでは、威儀を正して行列を構成した。
北面の武士は、11世紀末に、白河上皇が院政を開始したときに設置された。白河上皇は、地方豪族出身で位は低いが戦闘の実力者ぞろいの北面の武士を信頼した。北面の武士は、武士にとってたいへんなエリートコースで、地方の開拓領主はどんなに土地や財産があっても、朝廷から官位をえることはできなかった。官位がないと、国政に発言できない。だから、政府への発言権をもつ官位をえて、上皇のそばに仕える武士は、地方に帰ると実力者として、武士団のトップに立つことができた。
それで、開拓領主たちは上皇に領地を荘園として寄進しみずからは荘園の管理者となって、有能な子弟に郎党を付けて、北面の武士として仕えさせ官位を与えられるよう願っていた。
郎党を引き連れて、院の北面の武士となること自体、開拓領主の中でも財力ある特別な子弟にのみ許された。それは、官位を得るには「三位」以上の公卿の推薦も必要なため、公卿にも付け届けをする。さらに、国家的な事業に対して莫大な寄進をしなくてはならなかった。これを「成功」(じょうごう)というが、「成功」によって、院政時代の壮麗な六勝寺や
鳥羽殿、三十三間堂などが築かれた。そして貴族の仲間入りをするために、和歌や笛・鼓などの楽器なども習った。
佐藤義清は、18歳のとき、佐藤一族の「成功」によって、宮城の門を守る役職、兵衛尉(ひょうえのじょう)に任じられた。佐藤家は東海、近畿、伊勢にわたって領地をもつ富裕な豪族で、義清は鳥羽上皇の北面の武士として仕えた。
佐藤義清を取り立てた徳大寺実能は鳥羽法皇の妃璋子・の兄であり、璋子に仕えた佐藤義清の前途は洋々と開けているように思われたが、1140年10月、23歳のとき、とつぜん出家した。
佐藤義清を取り立てた徳大寺実能(さねよし)は、保元の乱に後白河天皇を補佐し、その政権を支えた。ところが、平治の乱で北面の武士の同僚、平清盛と源義朝が戦い、勝った平家は五位どころか、三位以上の公卿を独占。しかし、清盛亡き後、平家は源(木曽)義仲の台頭によって、京から兵庫に逃げた。
そして、徳大寺家をついだ実定は、木曽義仲に憎まれて官位を奪われたが、源義経が義仲を滅ぼすと、院政の中枢に活躍。その後、源頼朝とのパイプ役をにない、平家を追討した源義経を謀叛人として鎌倉方と講和政策を進め、左大臣となった。
こうした変転する世の中に、佐藤義清が徳大寺家に止まっていたら、たとえ一時の栄華をえても、おそらく大きな挫折にみまわれたにちがいない。義清は、西行となることで、このような醜い権力争いから身を引き、やがて武士をしていたのでは達成できなかった新しい世界を構築していった。
鎌倉時代随一の歌人として「新古今和歌集」に94首(入撰数第1位)が掲載されている。
1186年、東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため奥州へ旅し、この途中に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。
頼朝との面会で、弓馬の道のことを尋ねられたが、「一切忘れはてた」ととぼけたといわれている。
江戸幕末に高杉晋作は
「西へ行く人を慕うて東行く我が心をば神や知るらむ」と歌い、東行と号した。ここでいう「西へ行く人」とは、他ならぬ西行を表している。
一方、西行に敬意を払う高杉自身は東にある江戸幕府討伐を目指した。