世界津波の日 2
安政南海地震は、嘉永7年11月4日と5日に発生した。
4日の地震で人々は高台に避難したが、5日、高台で一夜を明かした村人たちは各自家に戻った。ほっとしたのもつかの間、5日の午後4時ころ、再び大きな地震が襲った。濱口梧陵が「激烈なること前日の比にあらず」と記すほどの烈しい揺れに見舞われた。瓦が落ち、家の柱がねじれ、壁や塀が崩れ、土煙が空を覆う。揺れが収まると、梧陵は被災した村内を見回った。
ところがその途中で当初異変が無かった海面が急激に変化し始め、またたく間に海面が山のように盛り上がり、広村の人家に押し寄せた。高さ5mの津波は湾の奥でさらに高さを増し、凄まじい勢いで津波が襲った。
濱口梧陵の手記によると
「逃げ遅れるものを助け、難を避けたいと願った瞬間、津波が早くも民家に襲いかかった。私も早く走ったが、左の広川筋を見ると、津波はすでに数百メートル川上に遡り、右の方を見れば人家が押し流されたり崩れ落ちていた。
あわててふためき避難する村人たちの混乱の中で、逃げ遅れたものを助け、自分も走って避難しようとしているうち、ついに梧陵も津波に巻き込まれてしまう。梧陵は浮き沈みしながらかろうじて丘にたどり着いて難を逃れた。津波は廣村の両側を流れる江上川、広川をさかのぼり、家々を飲み込んで村をまたたく間に破壊しつくした。
広村の惨状は目を覆うほどであった。
濱口梧陵がようやく高台の広八幡神社境内に着いたところ、「村人たちは行方のわからぬ家族を心配して大混乱に陥っていた。」と、手記にはどこにも地震を村人に伝えた場面がなく、自らも津波に流されてかろうじて一命を取り留めたようだ。このあと「稲むらの火」が登場する。
すでに夜になっていたが、儀兵衛は逃げ遅れたものを助けるために10人ほどに松明を持たせて村に戻る。しかし、倒壊家屋の残骸や流木が道をふさぎ歩くこともままならぬ状況だったため、このままでは危険と判断して引き返した。
その途中漂流者や逃げ遅れたものが逃げる方向を見失わないようにと、稲むらに次々と火を放ちながら高台に戻った。
手記には「この計、空しからず。これに頼りて万死に一生を得たもの少なからず」と書かれている。最大の津波が轟然と村を襲ったとき、荒れ狂う激浪は点火した稲むらの火まで飲み込んでしまった。
濱口梧陵の手記によって、「稲むらの火」は津波の前ではなく、津波の後で、暗くなる中、安全な避難経路を人々に示すために用いられたことがわかる。
電気のない江戸時代に、夜になると真っ暗になり逃げ道が分からないところを、濱口梧陵は稲むらに火をつけることによって避難経路を示し、多くの人の命を救った。